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箕田源氏のふるさとを歩く

4月21日、いきがい愛の会の平成27年度事業の企画第一弾「歴史探訪・鴻巣ウォーキング」が、鴻巣ボランティアガイド会の案内で実施されました。画像

今年の4月の気候は、記録的な日照時間の不足で非常に不安定な日々が続き、前日までハラハラさせられましたが、当日は曇天で風もなく歩くとチョッと汗ばむ程度の気温となりました。北鴻巣画像駅に予定時間の9時20分までに集合された36名を、西口階段下に近いシバザクラの美しい「すみれ野中央公園」に移し、グループ分け、ガイド会のメンバー6人の紹介、集合写真の撮影などを済ませ、念のためにその後に到着する参加者がいないことを確認して9時30分に出発しました。さて、今回は平安時代(794-1192中期に栄えた「箕田源氏のふるさと」を中心に行われましたが、この後度々登場する歴史上の人物から紹介しておきましょう。

源経基(みなもとのつねもと) 清和源氏の祖と言われる源経基は、清和天皇第6皇子貞純親王(ただずみしんのう)の子で「六孫王」と号し、武蔵介として関東に下り営所としたのが鴻巣市大間の県立鴻巣高校南側にある通称「城山」で、その場所は「伝源経基館跡」として自然林のかたちで保存されています。この源経基の系統は、その後頼光、義家、義朝、義経、実朝などを輩出し、頼朝の代には鎌倉幕府をひらき政権を握るなど、源氏の本流として最も栄えたのであります。

源仕(みなもとのつこう)  箕田源氏の祖となった源仕891-942は、曽祖父が嵯峨天皇であり、祖父の源融(みなもとのとおる)は紫式部の「源氏物語」の主人公でイケメンと言われた光源氏の実在モデルといわれています。その嵯峨源氏の流れを汲む源仕が武蔵守に任ぜられて東国に下向し、自らを箕田源氏と称して土着し、源経基に智勇兼備の武将として仕え、承平・天慶の乱で平将門、藤原純友と戦い大功をあげたと伝えられています。

源宛(みなもとのあつる)  その子の源宛(933-953)は、天慶の乱では父に従って西国に赴き武功を立て、「今昔物語」には平良文(たいらのよしふみ)と荒川の河原で一騎打ちを行ったという有名な説話が収められているが、天歴7年 (953) に21歳の若さで亡くなっています。

渡辺綱(わたなべのつな) その子の源綱(953-1025)は、幼くして両親を失い、母方の従母に引き取られて摂津国渡辺庄で育てられたため、渡辺姓を名乗ります。渡辺綱は成長して源頼光に仕え、頼光四天王の随一の剛勇として酒吞童子や鬼女退治の説話に登場。源融譲りの美男子であったと鴻巣市観光課のパンフには載っていますが・・・・。

では、ガイドさんの案内に沿ってウォーキングコースを紹介してまいります。

武蔵水路 すみれ野の住宅街を南に進み4分、最初に足を止めたのが武蔵水路に架かる満願寺橋の画像うえ。丁度、水路は真ん中で仕切られ、半分は満水状態で滔々と流れ、一方は空堀状態で老朽化した施設の改修工事中。この水路は、東京オリンピックを前にした昭和36年(1961)頃から渇水の続いた東京都の要請で、豊かな利根川の水を利根大堰で取水し、荒川へと導く14.5kmの導水路として昭和38年画像1963)に着工、昭和43年(1968)に完成しました。荒川を下降した水は、さいたま市西部の秋ヶ瀬橋上流で東京都の朝霞浄水場に、また埼玉県は大久保浄水場へと取水され、それぞれ主要な水道用水、工業用水に利用されていますが、この首都圏の生活を支える大動脈としての武蔵水路も、最近では経年劣化から漏水や地盤沈下という老化現象に悩まされているのです。

満願寺 武蔵水路を渡り真っ直ぐ進むと、鬱蒼とした竹林の奥に真言宗豊山派の満願寺が見えてき画像ます。しかし、ガイドさんは右側の本堂は無視して、道路を挟んだ墓地のなかの古びた堂宇を指し「あの大御堂は、源経基が阿弥陀三尊を安置する場所を決めるために放った矢が落ちたところ・・・」と語りはじめ、源経基が創建したとも、源頼義が奥州討伐の際に戦勝祈願に創建したとも、頼義の家臣若林某が住んでいたとも、鎌倉時代以前からの言い伝えが残る源氏所縁の阿弥陀堂とのこと。

箕田2号墳 古刹を出て1分ほど南に進むと左側に氷川神社の鳥居があって、その奥にこんもりとし画像た円い丘が見えます。これが箕田2号墳です。この周辺には6世紀初頭から7世紀中葉の約150年間に築造されたと墳墓が9基あり、箕田2号墳は6世紀後葉に築造されたもので、別名「三氏塚」と呼ばれて源仕とその妻・子の墓とする古記述もあるが真偽は不明とのこと。なお、箕田の読みは「みだ」と濁ります。

伝箕田館跡 さらに50mほど南下して、右折する角の住宅と西隣との境界に「山神・荒神」と刻画像まれた50cm程の小さな石碑があり、江戸時代に箕田館跡の目印に立てたとのこと。源仕が武蔵守に任ぜられ、箕田郷として開発したのがこの辺りで、概ね箕田2号墳から氷川八幡神社にかけた一帯であったとされています。

宝持寺 先ほど右折した位置までバックして南下すること1分。前方に金色画像に光る鴟尾(しび)を載せた立派な本堂が見えてきます。約千年前に渡辺綱が祖父源仕と父源宛の菩提を弔うために創建した曹洞宗宝持寺です。この墓地の一角には「全国渡辺会」なるものが渡辺姓の発祥の地として顕彰碑を建てていますが、渡辺綱の子孫は摂津国や肥前国に移り住んでいったために、500基ほどある墓地のなかを一巡しても「渡辺」と標記した墓を見つけるのは容易ではないとのことです。

氷川八幡神社・箕田碑 宝持寺の山門を出て直ぐ右に氷川八幡神社が見えますが、そのまま西画像に50mほど進み県道76号線を右折して正面に出ます。ここは明治6年に画像箕田地区の鎮守であった八幡社と、同じ村内にあった氷川社を合祀して氷川八幡神社となったが、その八幡社は藤原純友の乱を鎮めた源仕が京都の石清水八幡宮から分霊を勧請し、氷川社は源経基が承平元年(931)に勧請したと伝えられています。本殿に進むとその右側に緑色岩の箕田碑があります。その碑文の冒頭に、この地が武蔵武士の発祥の地であることが記され、源経基が満願寺の大御堂を建立した経緯や、箕田氏三代(源仕・宛・綱)について刻まれています。また、背面には渡辺綱の辞世の句と、箕田三代の文武をしのんだ芭蕉、鳥酔の句が刻まれています。

宮登神社・宮登古墳 次に、県道76号線を南に300mほど進んだ最初の信号を右折し、その先画像の手押しの信号を左折して直ぐのところに宮前地区集会所入口の看板あって、これを右折した先が宮登神社です。江戸時代は聖権現社と言いましたが、明治2年の神仏分離政策に伴い仏教色の強い社号を八幡社と改め、明治40年宮前地区と登戸地区に鎮座していた六社を合祀し、その頭文字を採り社号にしたとあります。社殿の裏手あるのが宮登古墳(箕田9合墳)で、7世紀前期から中期に築かれた円墳ですが、横穴式石室の入口らしきものがむき出しになっているのが特徴でしょうか。

箕田観音堂 宮登古墳を出て住宅街を南に300mほど進み、左折した先にベルクというスーパーの画像黄色い建物が見えてきます。この先にはトイレがないためしっかりとトイレタイムをとります。ベルクから県道を300mほど南下すると、左手に渡辺綱が開祖とされる箕田観音堂が見えてきます。ここに祀られた馬頭観世音は、源経基が戦いの折に兜に頂いて出陣した一寸八分(5.5cm)の尊像です。この由緒ある観音堂の入口にある一対の灯篭にも、当然のように「三ツ星に一文字」の渡辺紋が彫られています。箕田地区にある神社や寺院には必ずと言ってよいほどに登場しますが、まるで水戸黄門が印籠につけた『葵の紋』のように。

勝願寺・六地蔵板石塔婆 観音堂から県道を300mほど南に進み、最初の信号を右折して西に画像400mほどで勝願寺に見えてきますが、その手前右側の墓地なかに六地蔵板石塔婆があります。この石碑は南北朝時代の康安2年(1362)の造立で、高さが約130cm、幅約50cm、材石は秩父青石(緑泥片岩)。塔頂の種子(しゅじ)は欠け、塔身部に六体の同じ姿の地蔵菩薩が陰刻されています。ただし、その横に欠けた種子が無造作に転がっていたのにはビックリ。次の真言宗豊山派勝願寺は、ときの執権北条経時の帰依を受けた記主禅師によって建長4年(1252or文永元年(1264)に創建されたものの、天正年間に鴻巣市本町に天照山勝願寺として再興され、当地には堂宇だけがそのまま残されました。しかし、その名跡を惜しんだ徳川家康から10石の御朱印状を拝領して再建され画像たという古刹で、往時の山門には仁王像が左右で睨みを利かせていたと伝えらています。ただし、そのように由緒ある山門の現状はみすぼらしさも甚だしく、閉ざされた両開きの板戸は傾き何か所も朽ちて穴があき、その右側に一人すり抜けられる幅で雑草が倒れている有様は、まさに栄枯盛衰。境内に入ると、本堂の脇に平成12年に屋根を銅版で葺き替えたときの記念碑だけが大きく目立ち、古びた周囲の佇まいとは全く異質過ぎて、維持管理しつつ存続することの難しさを勝手に感じてしまいました。

以上が本日のコース案内であります。今回の歩行距離は約6〜7kmで、時間にして約3時間およぶウォーキングでしたが、最初の指示が曖昧であったために、勝願寺から直接鴻巣駅を目指したグループ画像伝源経基館跡を経由したグループに分かれてしまい、到着時間が30分ほどずれてしまう不手際もありましたが、住宅街の生活用道路を横に広がることもなく整然と、しかも全員無事に事故もなく予定時刻の12時30分までには鴻巣駅に到着となってホッとしました。解散した後は駅周辺の居酒屋で懇親を深めたグループ、B級グルメで有名になった名物の川幅うどんを食したグループなどと帰路はそれぞれでしたが、フジ、ヤマブキ、サツキ、チューリップなど百花繚乱のなか、春のウォーキングを楽しむことができたのではないでしょうか・・・・・・・。

                                (文・大塚 写真・角田・磯・鹿島)

   
   
   
 

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